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元少年飛行兵の記録(予科練の群像より抜粋)

序文
灼熱の太陽が容赦なく照りつけ、紺碧の空を眺めていると、忘れようとしても決して忘れ去ることの出来ない、半世紀前のことが思い出されてならない。戦後五十年を語るとき、青春の総べてを賭けて戦った、予科練出身搭乗員。その予科練を語らずしてはおられない。それは、太平洋戦争における海軍航空兵力の中核は、予科練出身者が占めていた事実があるからである。

絶望的な戦況下、無謀ともいえる命令を甘受し、ただただ黙々として任務を遂行した紅顔の美少年たち。僅か二十歳前後の青年たちが、祖国と肉親の安泰を祈りつつ、名も命をも借 しまず敢然として、国に殉じた崇高な精神を、真摯に受け止め、永く後世に伝えなければならない。
予科練出身の戦死者は、一八、九○○柱である。
当時を思い起こせば、私は、涙なくして語ることは出来ない。

ここに靖国の英霊に成り代わり、共に戦い生き残った我々同窓が、それぞれ体験した赤裸々な記録を、忠実に伝えようとして編纂したものである。その会員の事跡が貴重な歴史の証 として、多くの人々に深い感銘を与え得るならば、幸甚の至りである。敗戦から立ち上がり、世界第一の経済成長を成し遂げた日本。今日、自由と平和を謳歌することの出来るのは、彼等英霊の、身を挺して国に殉じた礎が、あったからだと確信している。

国に殉じて散華された数多くの英霊に対し、深く哀悼の意を表し、生ある限り慰霊の行事を続けることを誓い、序文の言葉としたい。

事務局長 川野喜一

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予科練資料館の開館 十八期 川野喜一

昭和六十年九月二十四日、娘の結婚式で東京に行く機会を利用して、予てから一度は訪ねてみたいと思っていた予科練のメッカ土浦ヘ、兄と二人で行く事にした。

大分空港を一番の飛行機便で発つと、土浦を見学しても、式に間に合う事もわかった。日暮里で乗り換え、一路土浦へ向かう。車窓から見る景色もすっかり変わっていて、先ずびっくりした。土浦の駅に着いて、これが本当に土浦かなあと思うほど、駅前付近はすっか り変わっていて、昔の土浦の面影はない。駅前の食堂のおばさんと、色々話しをしていると、少しは昔の事を思い出せるようになった。駅前からタクシーに乗り、あのガード下を潜った時、ぐうっーと懐かしさが湧いて来た。 左側に見える霞ケ浦湖畔には、学校や水道局等の公共施設の建物が、ぎっしりと立ち並んで いるのには一驚した。

隊門の受付で、先ず記帳をして記念館の見学に来た事を告げると、記念館への道順を詳し く教えてくれた。左手に雄飛の松を見ながら進むと、飛行機や戦車等が置いてあり、自衛隊 の威容を垣間見て頼もしく思った。記念館の中に入ると、昭和四十五年に全国の同窓、遺族から集めた、遺書、遺品等が、所 狭しとぎっしり並べてあり、その量の多さに驚いた。特攻に行く時私の服と取り換えて行った為、遺品として残った西森兵曹(乙飛十六期)の 上衣を探したが、見付からなかった。館内に居ると、何か胸を締め付けられるような、感動を覚えて仕方がなかった。

この時私は、こんな資料館が九州に、いや大分に在ったらなあーと強く感じた。どんなに小さくても良い、気軽に見れる施設が欲しい。子供が駄駄をこねるように、是が 非でも、造りたい一念にかられていった。九州の片田舎にいては、そう簡単に土浦まで行けるものではない、その人達の為にも…。 また一番大切なことは、僅か十五年しかなかった我々予科練の歴史を、資料を、遺書を、正しく後世に伝え残すことが、我々生き残った者の務めではないかと強く感じた。そして、矢も楯もたまらず、県の総会の席上で幾度か話したが、賛成はしてくれるが結局は資金の面で、結論は出なかった。

意を決した私は、六十三年の春、自宅地下の駐車場を改造して、資料館を造ることにした。 友人の大工、足立直喜さんに依頼して、八月十五日に間に合うように協力してもらい、やっ と完成させる事が出来た。
ところが、さあ資料館に展示するものといえば、なかなか集まって来ない。井上会長始め、 松浪さん、特に手島さんには全面的に協力をお願いし、県会員、同期生にも協力を求めた。 そして看板も出来、何とか資料館らしき物が出来上がった。マスコミも取材に来るようになり、開館前には大きく報道された。

こうしてやっと資料館の開館に漕ぎ着けたのである。時に六十三年八月十四日。遺族代表 竹尾さんを始め、県雄飛会会員多数が参列し、厳かに神事を行ない、無事に開館する事が出 来た。
これも偏に、県会員並びに全国同窓の御協力によるもので、厚く感謝致して居ります。

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純真無垢だった予科練 二十三期 福丸光夫


昭和十九年八月、「七つボタンは桜と錨」と、憧れの予科練鹿児島航空隊に入隊した。

太平洋戦争はますます厳しさを加えつつある中、勇ましく厳しい先任下士官の班長殿に、 往復ビンタや海軍精神注入棒(バッター)をありかたくちょうだいしながら、毎日の体育訓 練に精魂をつかいはたし、午後九時消灯ラッパの音に故里を想い、ベットのシーツに涙する 入隊当初の頃だった。

食後の後片付けが分隊で一番遅かったと言われて、我が班だけが寝台の下潜りをさせられ た。これも潜りかたの遅い者三名は、片足上げ腕立て伏せ十分間の罰直を受け、しかも班長は、「お前達は此処を何処だと思っているのか、軍人精神がたるんでいる。そんな事で飛行機 に乗れるか?いま俺が、その精神をたたき直してやる。お前達が死んでも葉書一枚で代わり はいくらでもいるんだぞ」と、怒鳴られ、我々初年兵は犬畜生並みに言われる。腹が立つやらくやしいやら、それで も何くそ今に見ておれ、立派な飛行兵になって、神風特攻隊員になるんだという気概をもった 毎日であった。

当時の私たちは、男子なら軍人になって、御国の為に、また天皇陛下の為に一命を捧げ尽く すことが、親孝行の道でもあると教えられ、またそう信じてもいた。戦没者の家の門口には「軍神の家」という標示が出され、私達はその家の前を通るときは、 必ず敬礼をして通ったものである。入隊して半年も過ぎ、どうにか隊内生活にも馴れ、操縦、偵察の組分けも終わり、これか らいよいよ飛行兵としての訓練を受けるのだなと期待をし、充実した気持ちの毎日であった。

こうした矢先、忘れもしない昭和二十年三月二十八日のことである。朝から敵グラマン戦 闘機の大空襲を受け、一朝にして鹿児島航空隊は廃虚と化してしまった。そのとき私は分隊 長付き伝令として隊に残り、他の隊員は総て隊外の横穴式防空壕へ待避していた。私は分隊 長と一緒に、隊内の防空壕で空襲を受けたが、本当に生きた心地はなかった。このただ一回 の空襲で、情けなくも焼け出されたのである。それで私達二十三期の一部は、鹿屋航空隊に 転属し、防空壕掘りや、特攻機として出撃する零戦を、掩体壕から飛行場まで押し出す作業 が続いた。昭和二十年五月頃は、鹿屋航空隊も毎日のように空襲を受け、部隊も防空壕内が多くなり、 飛行兵としての訓練どころではなくなった。

 こうした中で、特攻出撃の零戦搭乗員が、日の丸の鉢巻きをきりりと締め、純白の絹のマフ ラーを首から風になびかせながら発進する。見送る私達に手を振りながら、次から次と出撃する姿が、瞼に焼きついて離れない。二十才前後の青年が、わが身を捨て、俺達が国を守るのだと、純真な気持ちで死出の旅に旅立つその勇姿は、神神しいというか、なんとも言い ようのない美しさで、五十年経った今も忘れることが出来ない。

当時の私達も真面目に、「俺達は何時になったらああした勇姿になれるだろうか、早く特 攻隊員になりたい」と、真剣に願っていた。幸か不幸か飛行機にも乗れず、入隊一年で終戦 となったのである。数多くの南海に散った先輩達を想うとき、私達の今日が自由でゆとりの ある幸せな日本社会…。これも先輩達の、尊い命の礎のもとに築きあげられたものだと、私 は信じている。こうした時もとき、政府は戦後五十年の決議文案で、色々ともめている。第二次大戦は日 本の侵略戦争であったとか、植民地支配が目的であったとか、で全世界に対して深く反省し 謝罪しなければならないと言う。

愛国心に燃え、親兄弟、日本国民を守る為にと、純真な気持ちで零戦もろとも突っ込んで 行った先輩達はこれを聞いたとき、納得して安らかな眠りにつくことが出来るであろうか?私達は決して侵略とか、植民地支配のために、戦ったのではない。大東亜共栄圏、アジア は一つといった東洋平和の為にこそ、命を捨てて戦ってきたのではなかったのか。政治的に 軍国主義教育のもとに…、最近よく言われる、マインドコントロールであったのか…。

二度とこうした戦争はしたくない。そして先輩達の慰霊に対しては、悪い戦争(侵略、植 民地支配)であったとは決して言えない心境である。

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防空壕の中の想い出 二十四期 今山二生

私達乙種二十四期が、予科練教育を中止して戦備作業に配属されたのは、昭和二十年の四月頃だったと記憶している。

敗戦の色も濃くなった六月、私達二十名は長崎県大村市の大村航空廠で、女子挺身隊の人達と一緒に飛行機の部品作りの作業をしていた。しかし殆ど毎日のように空襲があって、その都度防空壕に避難していた。軍律厳しい戦時下ではあったが、空襲で防空壕に避難する時に、男女一緒ではいけないという規則はなかった。防空壕の中で、何回か隣りに座ったことのある女の人が、ある時そっと私の手に紙袋を握らせてくれた。私は何だろうかと思ったが、人目があるので気にして開ける事も出来ず空襲が解除されるまでその袋を握り締めていた。

空襲が解除になり、挺身隊の人達は各自の職場へ戻って行った。私に紙袋をくれた女の人が出て行く時に、何か目配せしたようであったが、一瞬の事でもありお礼を言うのを忘れていた。一人になって紙袋を開けて見たら、カンパンが十個ぐらいとコンペイ糖が三粒入っていた。 (当時の戦時中の一食分)食糧難の時代でもあり、貴重な物であった。配給の食事として渡されたカンパンを、食べないで私に下さった気持ちに対して感激の余 り口にする事も出来なかった。夜、宿舎に帰り毛布を被り、お姉さんの顔を思い浮かべながら食べたカンパンの美味しさは、今でも忘れられないことである。

その後何回か防空壕の中でお会いし、その都度少量ではあるが、イモ飴やおこしも戴いた。 その時私は、何のお礼もする事が出来ず、空襲の間防空壕の中で、お姉さんの手を握り締め ていたのが、精一パイのお礼であった。終戦になりパニック状態の中だったので、お名前を間く事が出来なかったのが残念でなら ない。しかし私の少年時代の清純な想い出としては、お名前よりも挺身隊のお姉さんの方が、いま想い出しても良いと思っている。

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入隊当時の思い出 十八期 川野喜一

【食卓当番】

一個班の人数は大体十八人位で、各班毎に二人の食卓番がいる。給食時間前になると、係はいっせいに烹炊所へ駆ける。早く行かないと食罐が無いかもしれないからだ。入隊当時は、 当然真新らしい食罐、食器、一揃が、各班毎に与えられるが、あるのは初めだけ、そのうち員数が足りなくなるのが、海軍の常である。勿論食罐には、一OO分隊一班と書いてある。それはさておき、また兵舎まで駆け足で食罐を持って帰る。それからが、当番の腕の見せどころ。食卓の席順は決まっている。自分の 飯椀へぎゅうぎゅう飯を押し込む。おかずはそんなわけにはいかないが…。そんなことはみんな知っている。当番が自分に回ってくれば自分もやればよいからだ。今で言う、役得とい うことだ。

いがぐり頭の新兵さんは、ほとんどが農家の出身だ。入隊するまでは、飯だけはいっぱい食べていた。みな胃袋は大きくなっている。仏様でもあるまいし、一膳飯とは情けない。 『腹が減っては戦は出来ぬ』ということだ。みんな、人より一粒でも多く食べたいと思うのが、新兵さんの常である。それも班長に見破られてからは、川野練習生は、
 「班長、食事の用意が出来ました」
 と教員室へ報告に行く。
 「よし」
 と班長はただ一言。
練習生は食卓の前で行儀よく、班長の来るのを待つことしばし。班長が着席すると、みん な起立し、一瞬静かになる。班長は、
 「三歩ずつ右へ移動せよ」
 と言った。
これで万事休すだ! 折角の苦労も水の泡だ! あのぎゅうぎゅう押し込んだ飯は、猿渡 練習生のところへ行ってしまった。笑うにも笑えぬ一コマだ。

それからは、また一考するのが練習生の悪知恵だ。今日は何人位どちらに移動するかと、 ひそかに考える。当るも八掛、当らぬも八掛、宝くじと同じである。

【残飯よこせ運勤】

私は斑では小さい方で、食卓に着いても末席の方だった。一斑の斑長は先任下士であった せいか、箸をちょっとつけるだけで、すぐに席を立つ。別な所で御馳走でも食ぺているようだ。問題はそこから起こる。班長席の近くにいる練習生は、班長が席を立つのを待って、一斉 に手をのばす。もちろん班長の食べ残しが目標だ。

うまいことをしやがる。何時も末席の方にいる練習生は、指をくわえて悔しがる。腹が満 足しないのは、みんな同じだのに。何しろ自分達より二十センチも大きい奴ばかり、喧嘩し ても勝てる相手じゃない。意を決して坂本、猿渡、井口、羽生達と相談し、大きな奴に文句 を言うこととなる。甲谷、富田、宇都宮、岩田、安岡は何れも大男だ。九州組の猿渡、井口、 川野は、体は小さいが九州男児だ。口が悪いことでは彼らも一目置いている。
「お前ら、班長の飯を一人占めするちゃあ、けしからんぞー」
と、発破をかけた。
同じ希望と目的で入隊した同期生、しかも同じ班となった同志、わかりが早い、一件はす ぐに落着した。次の日からは、班長の残飯は順番に、みんなのお腹へ入ることとなった。

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十六歳とワッショイと 二十期 渡邉恭三

十六歳と言えぱ、今の高校一年生かな? 「吹上浜」の演習と聞いて、小さな胸がときめくのを感じたものだ。まるで遠足か何かにでも行くように…。なるほど、目的地までは完全 武装の予科練習生が行軍するのを市民が頼もしそうに見送ってくれた。胸を張って歩き、斥 候にも出て、楽しさの連続だった。目的地に着いたら、三人、四人と民家に分宿し最大のも てなしを受けた。吹上浜では、二枚翼の初歩練習機(三式初練)が青空に舞い、空砲の音が響きわたり、砂 浜を駆け回り、夜襲演奏をやり、楽しいことぱかりだった。

ところが、帰りのことである。
 「うまいもの食うて、油断するな」
と、誰かが言った。別に油断していた訳ではないが、突如として、(いや、前もって分隊 長と打ち合わせ済みだったのだろう?)キツネ野郎(織田分隊士)が軍刀を引き抜いた。
 「聞けっ!我が分隊は、只今より本隊まで早駆けを行なう。…早駆けー…始めっ−!」
と、号令した。
一瞬“ギョッ”となった。隣の猿渡練習生の顔を見た、都甲練習生の顔も見た。二人共、 今にも目の玉が飛ぴ出しそうな顔だった。みんなは一斉に、隊列を組んで走り出した。その先頭をキツネ野郎が走って行く。班長連 中も隊列を囲んで走り出す。本隊までは三十キロ以上あるだろう。それを完全武装して早駆けで走るのだ。吾が耳を疑いたくもなる。
一キロ…ニキロ。だんだんと隊列が乱れてきた。

 「ポサポサするなっー!」
砲術斑長が喚く。
なあーに、ニキロか三キロ走れぱすぐに、「早駆け止めっ−!」の号令が出るだろうと、 たかをくくっていた。(あまくみていたの意)だんだんと隊列が乱れてゆく。五キロ…六キロ…。もうばらばらである。
(これは、大変なことになったぞ!本当に本隊まで、走らせられるぞ!)
と、思った。

長距離を走ることは、苦手中の苦手だ。本隊まで走れる自信はない。速い連中は、もう見 えなくなってしまった。銃がずっしりと肩に食い込んでくる。
(キツネ野郎の糞野郎!)
俺は陸戦隊なんかに志願したんじゃないぞ、何十キロも走らんですむ飛行兵に志願したの だぞ。笑うな糞おやじ!畑の中で鍬を突っ立て、百姓のおやじがにやにやと笑っている。飛行兵の第二次試験のと き佐世保の海兵団で、肺活量検査に立ち会った若い衛生兵が、
「貴様、肺活量はぎりぎりだなあ。…飛行兵の訓練はえらいぞ。」
と、言ったのを思い出す。私は、大分の歩兵四十七連隊のすぐ近くで育ったので、陸さんの重装備で走るのは、いやというほど見ている。あれに比ぺればと思い直してまた走る。ま だ十六歳だぞと思いながら。

もう何キロ走っただろうか?皆思い思いに走っている。後ろを振り向いて見た。まだ後 から走ってくる連中もいる。銃が肩の骨をぎりぎりと削ってゆくような気がする。銃を肩から降ろして手に持ったが、やっばり重い。がりがりと銃尾が地面をこする。こりゃあいかん と思って、また肩に担ぐ。褌まで汗びっしょりだ。大声で泣きたいようだが、我慢して走る。 あまり銃が重いので、ニュース映画に出てくる陸さんのように、(逆さまに銃を担いだら) と思った。しかし、待てよ、(若し班長に見つかったら、只ではすまんぞ)とも思った。

 だが実行してみたくなった。銃口を手に、銃尾を後ろにして担いだ、なるほど楽だ。何十 メートル走っただろうか、突然、ぐわーんと一撃、頭にショック。目から火が出て、目の前 がぼーと霞んだ。
「馬鹿もん、貴様それでも兵隊か!ぼさぼさするな!銃を何と思うとる!」
ゴボー剣を手にした陸戦班長が、大声で怒鳴りつけた。班長は、ゴポー剣の峯で私の頭を 殴りつけたのだ。
頭は火がついたように痛む。じわっと指先で頭を触ってみると、大きな瘤から血がにじみ 出ていた。正に、泣きっ面に蜂である。一瞬、目の前が暗くなった。
(何だ何だ、実弾も発射出来ねえ練習銃じゃあねーか!菊の御紋章もついてねー練習銃 じゃあねーか!そこの糞瓶にぶち込んでやるぞー!)と、啖呵の一つもきりたい気持ちで あったが、俺一人のために、何百人もの同期生がバッターで殴られることになる。そして重 営倉へぶち込まれ、暗くて狭い板張りの部屋で、鬼のような営倉番兵が、毎日毎日バッター で殴りつけるだろう。ああ、いやだ、いやだ、頑張って走り続けなければ…と、思い直した。

ワッショイ、ワッショイと元気な掛け声が、後ろの方から聞こえてきた。まるで神輿を担 ぐように、一人の同期生を七、八人で担ぎ、その回りを十人ほどが取り巻き、ワッショイ、ワッショイと掛け声も勇ましく迫ってくる。落伍者をみんなで運んでいるのが、まるでお祭りの神輿のようだ。重い銃を二挺持っている者もいた。そうだ、(俺もあの連中の仲間に入っ て走ろう)と、思った。ワッショイ、ワッショイの声が、近くなった。銃一挺を持て余しているお前に、一体何が出来ると言うのだ。あの連中と一緒にいれば、「落伍者を運びました」とでもえるのか!何もせずにただ ワッショイ、ワッショイと言っただけで、「落伍者を助けて運びました」とでも言うのか! それともお前は、銃を誰かに持って貰おうとでも言うのか!走れないのを他人のせいにしようとでも言うのか、自分の力で自分の足で、走れないとで も言うのか!まだお前は走れるではないか!まるでワッショイ、ワッショイの声が、叱りつけるように聞こえてくる。思わず顔が赤く なった。自分自身が情けなくなった。惨めに思えてきた。ワッショイ、ワッショイの声はま だ言う。死ぬか倒れるか、自分の力で走ってみろと…。

突然、私は狂ったように、後も見ずに駆け出した。私は無我夢中、脱兎の如く一目散に突っ 走った。ワッショイの声が追いかけてくる。銃の重さも気にならず、何んにも目には入らな い。ワッショイの声から逃げるように、私は、ただ一目散に、走りに走った。

追記
訓練終了後すぐに、隣の厠へ走り込んだのを記憶している。

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自爆待て 七期 松浪清



十字砲火の嵐
 昭和十八年の六月末以降、敵のソロモン攻勢は急テンポに激しくなった。ガダルカナル島 ではへンダーソン基地を中心に、飛行場は群れをなし、一大要塞と化した。またルッセル島 の飛行場も整備し、ソロモン南部の制空、制海権を完全に掌中におさめた米軍は、物量にも のをいわせ、機械力を駆使し、怒涛のごとく押し寄せてきた。
 六月三十日、総反撃の米軍はレンドバ島に上陸、ここにわが軍は本格的な物量攻勢に直面 し、中部ソロモンの激しい死闘がくり返された。海軍水雷戦隊は勇戦奮闘、夜戦においては その練達の技量を発揮して、九三式酸素魚雷で米艦隊を撹乱し、中部ソロモンの海に殷々と して砲声がとどろき、海戦が連続した。
 すなわち、クラ湾夜戦(七月四、六、十二日)、コロンバンガラ夜戦(七月十二日)、ベラ 湾夜戦(八月六日)と立て続けに激闘がくり返されたが、八月五日、ついにムンダ基地も、 米軍の占領するところとなった。
 わが艦爆隊もこの敵輪送船団に対して、連続攻撃をくり返した。裏ムンダに、ライス湾に、 レンドバ島にと、昼間攻撃、夜間攻撃を反復した。
 息つくまもなく八月十五日には、ベララベラ沖に敵輪送船団が押し寄せ、わがコロンバン ガラおよびベララベラ島守備の陸海軍部隊の胸元に、七首をつきつけてきた。米軍はベララ ベラに対して八月中だけでも、十五日、十八日、二十一日、三十一日と輪送船団を送りこん できた。
 そのたびに、ブイン基地からは艦爆隊が出撃し、必死になって敵の反攻を食い止めようとしたが、堰堤を切った洪水のごとく、防ぎようもなかった。かくして中部ソロモンでは、十 月初旬、わが守備隊のコロンバンガラ、ベララベラ撤退まで、連続して苦しい戦闘がくり返 された。
 十月一日の早朝、苦闘にあえぐベララベラ島のわが守備隊に、最後のとどめを刺そうとし て、巡洋艦、駆遂艦に護衛された敵輪送船団が、大挙してギゾ海峡に押し寄せてきた。ベララ ベラ島増援部隊の進攻である。ただちに五八二空艦爆隊に対して、全力攻撃が発令された。
 当時、艦爆隊は敵の空襲に対処して、ブーゲンビル島のブイン基地とブカ島に分散配置して待機していた。ブカ島基地の艦爆隊は、連続攻撃で被害が続出し、使用可能機は全部で六 機しかなかった。
 第一攻撃隊はすでにブイン基地を発進し、敵輪送船団を攻撃中と報じてきたので、ブカ基 地ではただちに第二次攻撃隊が編成された。指揮官は桜山皓一中尉、私は第二小隊長を命じ られ、ペアは金縄熊義二飛曹だった。
 発令後わずか一時間の、午前十時四十五分には、攻撃隊はブカ上空を発進した。桜山中尉 の指揮する二コ小隊六機の艦爆は、二五○キロ徹甲爆弾一発と六十キロ爆弾二発の爆装であ る。艦爆隊は直掩の零戦二十四機と合同し、戦爆あわせて三十機の編隊を組んで、ベララベ ラ島めざして東南東に進撃を開始した。
 零戦三コ中隊は、右、左、上と艦爆隊をつつみこむようにして、ともに進撃する。零戦は、 一コ小隊四機の二コ小隊で中隊を組んでいる。連続するソロモンの戦闘で、米軍の四機編成に対処して、三機編隊から四機に変更したのだ。
 私にとってはベララベラの敵輪送船団攻撃は、八月十五日以来数回になる。これまで、攻撃のたびに敵戦閾機と遭遇し、苦しい経験をなめつくしていたので、今日もかならず、避退進 路上に敵戦閾機が待機しているだろうと判断した。そこで出発前に、今日の攻撃では降爆時 の進入針路を北西(ブイン方向)にとらず、敵の戦法の裏をかいて、進入方向を北東にとる ようにと、桜山中尉に進言していた。
 攻撃隊はブーゲンビル島をすぎるころから、徐々に高度を上げ、モノ島を左に見るころに は、高度を八千五百メートルにとった。気温零下二十度。私は酸素マスクをつけ、見張りを厳重にした。雲量三〜四、攻撃には上々の天気である。
 はるかに見えるブイン飛行場では、飛行機の発着を物語って、わすかに砂煙りが立ちのぽっ ている。ベララベラ島は、ブインから一時間行程た。故はもうそこまで反攻してきたのだ。
 わずか六機ではあるが、五八二空艦爆隊としてはブカの全兵力である。攻撃隊は一機一艦 必殺の思いをこめ、闘志満々たるものがあった。
 零戦二十四機の直掩隊は、虎の子六機の艦爆をつつむようにして進撃した。  正午すぎ、ベララベラ島を左前方にのぞみ、編隊は大きく南に変針、迂回して引き起こし 方向がチョイセル島方向になるように百八十度旋回した。
 断雲ごしに見るギゾ海峡には、すでにわが攻撃を察知した上陸部隊掩護の敵艦船が、円形 に、逆「く」の字形に、右に、左に、それぞれ白いウェーキの尾を長く引いて展開している。 まるで逃げまわるミズスマシのようだ。
 ベララベラ島南東部の海岸寄りには、蟻があつまったように小さな黒点がぎっしりとつめ かけているが、敵の上陸用舟艇にちがいあるまい。
 変針北上すると、すぐに第一波、十数機の敵機が襲撃してきた。双発双胴、高々度組のロッキードP組38ライトニングの編隊だ。左前方の零戦隊が空戦に入った。続いて第二波、十数機 のP38が殺到し、すぐに右側の零戦隊が応戦する。たちまち外側護衛の零戦隊は離れてしまっ た。
 「トツレヽトツレヽトツレ…」
 “突撃準備隊形つくれ”のモールス信号だ。指揮官機のバンクを合図に、わが小隊も全速 で前進し、一小隊と頭を並ぺた。
 眼下のギゾ海峡を、狂ったように蛇行している敵艦船から、閃光がひらめく。いっせいの 艦砲射撃だ。がくがくと機体はがぶられる。いつものことながら、敵の艦砲射撃は、じつに正確に至近弾を撃ち上げてくる。直掩の零戦八機は、右へ左へと、艦爆隊のすぐ上をジグザ クに警戒し、約束どおり急降下直前まで掩護してくれた。
 「トトトトト…」
 突撃間始だ。最後のバンクをして小隊を解散させ、綬降下接敵動作に移った。列機もわが 機に続いてくる。
 私は右横向きの姿勢で、右手で旋回銃の銃把をにぎり、後上方を見張りながらいつでも射 撃できる態勢になり、さらに警戒を厳重にした。 すぐに第ご一波の敵戦闘機が殺到し、直掩八機の零戦も空戦に入り、艦爆隊は丸裸になって しまった。
 左下方、ベララベラ島の上で、きらきらっ、きらきらっと、機影が反射する。濃い緑の原 始林の上をはうように、さめた青色の迷彩をした敵戦聞機約ニ十機の編隊が先行する。
 「おい金、敵が先まわりをしちょるぞ。引き起こしはチョイセルだぞ」
 「了解」
 出発前の打ち合わせを再確認する。高度六千メートル。真っ白い断雲をついて右後上方か ら、敵戦間機の編隊が突っ込んできて、いっせいに編隊射撃をはじめた。 翼端をぶった切ったような、ずんぐりした新鋭のグラマンF6Fへルキャット八機だ。
 「金、敵戦間機!いっぱい突っ込め。…もっと深くだ」
 ぐうっと機首が下がり、急角度に突っ込んだ。急に身体が左上に押しやられ、肩バンドが しまる。
 右後上方、斜交いから迫っていたグラマンの編隊が、尾翼の影で見えなくなり、十機条の赤い火箭が頭上を斜めによぎった。
 すぐ続いて、赤い曳痕弾を追っかけるように、灰色がかった硝煙の尾を引いて、グラマン の編隊が斜めに通過した。
 「後方よし、金、目標はつかんだか?」
 「すぐ前に巡洋艦が見えます」
 「よし、そいつに突っ込め」
 グラマンの急襲で不規則な運動をしたので、三番機が見えない。二番機は、五百メートル 以上も離れてしまった。はるか後方では、彼我戦闘機が一団となって入り乱れ、空戦するの が見えた。
 (三番機はやられたかな?)
 一抹の不安が胸をよぎる。機首を立て直し、弾幕をついて四千メートルから急降下に入った。 高度計の針がしだいに早くまわりだし、機はぐんぐん降下する。うまくセットしている。 機は首をふっていない。
 前にぶら下がっている空二号無線機の下から、ほこりがもやもやと立ちのぽり、むっとし た南方特有の熱気が座席内に充満する。硝煙のきなくさいにおいが鼻をつく。撃ち上げてくる曳痕弾の赤い弾幕を突っ切っているのだ。
 高度計のメーター読みの長針はぐるぐるまわり、機はぐんぐんと降下する。針は五百…四 百五十…四百をまわった。
 「テッー!起こせ−!」
 ぐうっ−とGがかかり、頭は無線機の下に押しやられそうで、肩バンドがしまる。機首が 浮き、尾部にふわっとショック。すかさず弾着を見た。
 「やった、直撃だ!」
 爆弾は巡洋艦の後甲板で炸裂、ぽうっとわずかに爆煙が立ちのぽった。わが機の爆弾は、 みごと巡洋艦に命中したのだ。
 (注)爆弾が外れて舷外に落ちた時の方が、水柱が立ち爆煙が大きく見える。爆弾は遅動 信管を使用しているので、直撃弾は艦底爆発。そのため直撃弾の爆煙は小さく見える。
 マスト、煙突、砲塔、鉛色の大きな艦影が、眼前でざっと右へ流れる。甲板上の水兵が、 右、左に急がしく動き、舷側の白波が大きくうねりながら流れていく。
 私は右手をいっばい突き出して、旋画銃を横向きにし、左手をそえて引き金を引きっ放す。 旋画銃は火を噴き、赤い火箭が真一文字に甲板に突きささっていく。
 横向きに曳痕弾の行き先を見ながら、右手で銃をぐるぐるまわし、曳痕弾を甲板上にばら まく。すべて一連の連鎖反応による、瞬時のことだ。
 しかし、巡洋艦はいせんとして健在で、全速力で白波を蹴立ながら、猛りくるったように 艦砲射撃をあびせてくる。
 「下がれ、いっぱい下がれ−!」
 「了解」
かん高い張り切った応答とともに、操縦員金縄二飛曹はぐっとスティックを押して、超低 空、五メートルの高度まで一気に下がった。
 フル回転するペラの風圧で、わが機の尾翼のすぐ下で波が立つ。わが機は、ぎりぎりいっ ばいの超低空をはって避退しているのだ。
 巡洋艦の右、左、駆遂艦群からもいっせいに猛射をあびせてきた。艦砲発射のたびに、閃光がひらめき、瞬間、黄色い火炎が、ベろりと艦全部をなめる。
 主砲弾が落下すると、五十メートルほどの水柱が立ちならび、わが機のゆく手をさえぎろうとする。副砲弾は、海面上二十メートルぐらいの高さで横一文字に炸裂し、その破片は滝 しぶきのようにいっせいに海面を切断する。
 四十ミリ機関砲弾は放射状に火箭の網を張り、互いに交差し、わが機の進路をふさごうとする。
 艦砲射撃の黒い弾幕は、たちまち空いっばいにひろがって、波ひとつないギゾ海峡はまた たく間に暗転してしまった。

一機対八機の戦闘
 引き起こした後は、右ヘ、右へと避退した。先まわりした敵戦闘機隊をまくためである。
 わが機は、ブイン基地の方向と九十度ちがう、チョイセル島めざして超低空で海面をはっ た。同行するはただ一機、指揮官桜山中尉のみである。わが機の左、直距離およそ八百メー トル。ともに超低空で、平行に突っ走った。
 桜山機の左、ブイン寄りはるかに、艦爆二機が海面上をはって避退するのを認めたが、す ぐに敵戦闘に取り囲まれてしまった。
 黒煙を一条引く敵巡洋艦より、約三千メートルほども避退し、ようやく敵艦砲射撃の危険 区域を脱したと思ったのもつかの間、外側を警戒していた敵戦闘機二コ小隊の編隊につかまっ てしまった。かもめ翼ボート・シコルスキーF4Uコルセアの編隊だ。
 「敵戦闘機、左後方二千」
 「了解」
 しまった、と思ったがもう遅い。
 シコルスキーの二コ編隊は、ぐんぐんこちらへ近奇ってきた。
 シコルスキーの四機編隊は手近な桜山中尉機に、獲物をねらう禿鷹のように猛然と襲いか かった。左後上方からいっせいに編隊射撃をあぴせかける。敵編隊からいっせいに撃ち出さ れた十数条の赤い火箭が、つつつ−、つつつ−と、桜山機に集中していく。
 (あっ、危ない。滑らせ、滑らせろ−!)
 桜山機はいっぱいに、ぐ−んと機を左に滑らせて射弾をかわした。
 敵の第一撃をかわした桜山機に、つぎの四機編隊がいれかわって襲いかかる。シコルスキ の四機編隊が、右後上から桜山機に迫っていく。編隊射撃−−赤い曳痕弾が十数条つらなっ て、桜山機に集中する。危ない、危ない…。
 (桜山中尉、危ない!大きくいっばい滑らせろ!)
 今度は、桜山機は右に、ぐ−んと大きく滑らせて、あやうく射弾をかわした。
 交互に襲いかかるシコルスキー四機の二コ編隊に、桜山機は右、左と懸命に、機を滑らせ て避退する。偵察員桜山中尉も果敢に、旋回銃を引きっぱなしで応戦する。
 しかし、熱戦数合、多勢に無勢、ついに桜山機は刀折れ矢尽きた。桜山機は紅蓮の炎を引 いて、あっという間に海面に激突、ガソリンが燃えひろがった。偵察員桜山中尉の放つ赤い 曳痕弾の火は、後方から上方へと変わり、突入の最期の瞬間まで旋回銃は発射し続けられて
 桜山機をほうむったシコルスキーのニコ編隊は、騎虎の勢いに乗じて、今度はわが機に、 左後上方から浅い角度で襲いかかってきた。直距離一千メートル。シコルスキーの一番機は、 機首をわずかに左右にふっている。
 (まだまだセットはしていない)
 「左後方、敵戦闘機」
 「了解」
 敵戦闘機の侵入方向を、操縦員に予告しておいて、私は先手をとって旋回銃の引き金を引 いた。わが機の垂直尾翼のすぐ横を、旋回銃の赤い曳痕弾が一直線になって突進する。シコ ルスキーの編隊は、ぐんぐんわが機に迫っている。直距離九百メートル。
 「金、左だぞ」
 合図と同時に、大きく左へ滑らせるんだと、予告する。
 (まだまだ…もうちょっとだ)
 はやる心を押さえながら旋回銃射撃を続ける。八百メートル。七百…六百。こきざみにゆ れていた一番機の翼が、ぴたっとセット、同時にかもめ型主翼の前縁に、ばっと硝煙。瞬間、 「左!」と、大声で号令する。
 操縦員金縄二飛曹は、号令とともに左足フットバーを力強く前に踏み出し、同時にスティッ クを反対に右前方に倒して、ぐ−んと機を水平に左へ大きく滑らせた。
 私の身体はぐ−んと左に(反対に後ろ向きなので)押しやられ、顔に猛烈な風圧がかかる。
 こちらに向かってくる十数条の赤い曳痕弾は、つつつ−と垂直尾翼の直前から左鬢をかす めるように通過する。わが機の旋回銃の曳浪弾か、敵編隊の一番機に向かってまっしぐらに 突きささっていく。
 シコルスキー一番機のエンジンがぐんぐん大きくなり、あっという間に左後上方で大きく 切り返した。シコルスキーは、カムフラージュもはげ、色あせて見える。胴体には、星のマクの前に斜めの白線が描かれている。
 (こいつは、歴戦の艦載機のパイロットだな、何くそ!負けてなるもんか!)
 入れかわり、立ちかわり、五回、六回と、左右交互に敵シコルスキーの編隊は執拗な攻撃 をくり返している。そのたびに、私は死にものぐるいになって、旋回銃で応戦した。
 円形の九十七発入りの弾倉は、せいぜい二航過か一二航過分しかもたない。
 敵機の切り返しの間隙をぬって、すばやく弾倉を交換する。少しぐらい残弾があっても、 すぐに交換しておかないと間に合わない。敵機がぐ−んと突き上げ、腹を見せたら、すぐに 空弾倉を足下にほうり投げ、新しい弾倉と交換する。連続して旋回銃射撃を維持しないと、 肉薄されて撃墜されてしまう。私は無我夢中で旋回銃を撃ち続けた。
 艦爆一機に八機の戦閾機。わが機は操偵呼吸をぴったり合わせて、いっせいの編隊射撃の射弾をかわし、息つく間も無い死閾をくり返した。
 すでに艦爆一機をほうむっている敵編隊は、気勢大いに上がっている形勢である。敵の列 機はぴったりと一番機にくっついて、右へならえでいっせいに射撃してくる。

自爆待て、起こせ!
 敵は七度目の射撃にはいった。なかなか火を吐かないわが機に業をにやしてか、いままで は、百メートルぐらいの距離で、機首を上げて切り返していたシコルスキーの一番機が、ぐ うっと大きく迫ってきた。これまで鬢をかすめて流れていた赤い曳痕弾の列が、今度はつつつ−と私の両眼に集中、鼻の中心に突きささる感じで飛んできた。
 思わず、はっと息をのんだ瞬間、ぱぱっと、胴体後部のジュラルミンが破裂した。シコル スキー一番機のエンジンが、大きくわが機の垂直尾翼に重なり、ぐうっと機首がのしかかる ように迫ってきた。
 ぐわ−ん!左腕にショック!
 敵機の切り返しの瞬間に左腕をひょいと見ると、二十センチばかり飛行服が、ぽっかりと 口を開けている。左上膊部のこげた飛行服の中で、赤い肉がぐしゃしゃになっている。
 (やられた、大丈夫かな?)
 左手を二、三回、こきざみに握ってみた。
 (動く!大丈夫だ…ここでやられて、たまるもんか!)
 猛然と閾志がわいてきた。
 続いてまた、つぎの四機編隊が襲撃してきた。私はシコルスキーの一番機をねらって、懸 命に旋回銃の引き金を引きっ放した。三百…二百…百。敵戦閾機の編隊は、今度もぐんぐんわが機に肉薄してくる。わが機はいっばい滑らせて、敵の射弾をかわしている。わが機に迫 る十数条の赤い火箭は、垂直尾翼すれすれに、鬢をかすめて流される。
 (まだ大丈夫だ)
 七十…五十。あっと思った瞬間、また曳痕弾が目の真ん中に突っ込んできた。
 私は、ぐんぐん大きく迫ってくる一番機のエンジンの上縁をねらい、必死に旋回銃の引き 金を引きっ放した。ほとばしり出るわが七・七ミリ旋回銃の赤い曳痕弾は、まっしぐらにシ コルスキーのカウリングの下に突きささっていく。これでもか、これでもかと、懸命に旋回 銃を発射した。
 つぎの瞬間、シコルスキーのエンジンの上縁から黒煙が出た。
 (やった、当たった!)
 その瞬間、ぐわ−んと左踵にショック!
 シコルスキーのエンジンが尾翼いっばいに重なり、ごおっ−と上に出た。同時に私の左側、 わが機の右翼燃料タンクが火を吹き、黒煙の尾を引いた。
 すぐ上の敵の一番機は、どす黒い煙を長く引いて、左に切り返しの姿勢のまま、すぐ後ろ の海面に激突、水しぶきとともにガソリンの炎を吹き上げた。
 これを見て、敵の列機は右、左にあわてて四散し、編隊をといた。しかし、わが機も、紅 蓮の炎が右翼をはみ出し、黒煙の尾を長く引いている。
 (相打ちだ、だめだ)
 (大丈夫だ、頑張れ)
 二つの心が同時に叫んだ。  わが機は、そのまま突っ込みそうだ。
 「自爆待て、起こせ−!」
 私は腹の底から絶叫し、操縦員を叱咤した。しかし現実には、後ろ向きのまま後ろ髪を引 かれて、海面に突入していく感じだ。
 「金、最後まで頑張れー!」
 さらに操縦員を叱咤した。
 絶叫するわが声とは反対に、頭の中では、思い出がくるくると走馬灯のように、すばやく駆けめぐる。…老母の顔、友の顔、顔、顔、そして、もう一つの頭の中では、
 (いますく死ぬのだ。…死んではいけない…いや、現実はすぐ死ぬのだ。名もなく死んで いくんだ。自爆未帰還○○機と、小さく新聞の片隅に並べられ、死んでいくんだ。だが、や っばり国のためになるんだ。これでいいんだ)
 そんな三つぐらいの思いが、同時にかけめぐる。ほんの数秒、いや、瞬時の間に…。
 令なく、機は左に大きく急旋回した。わが機は、続いて侵入してきたシコルスキー四機編 隊のまっただ中ヘ、機首を上げて突っ込んでいった。敵の編隊はあわてて急上昇し、わが機 の頭上で四散した。操縦員金縄二飛曹が、死なばもろともと、独断で反転して体当りを敢行 しようとしたのだ。
 「金、巡洋艦まで引き返せ。巡洋艦に突っ込むぞ」
 「了解」
 基地までは無理だ。どうせ駄目なら、大きい奴と心中しようと、くそ度胸がすわって、巡 洋艦に体当たりして自爆しようと決心した。
 敵は編隊の一番機がやられて海面に突入した後は、わが方の体当たり戦法におそれをなし て、追尾してこなかった。左足を見ると、飛行靴の踵はふっ飛んでなくなっている。座席の 下と左側は、ジュラルミンが裂けて、大きな穴があいている。
 反転してしばらくすると、右翼の燃料タンクの炎がだんだん小さくなり、太く引いていた 黒煙が細くなってきた。
 「金、タンクを切り替えろ」
 「了解、さっき切り替えました」
 「よし。…金、滑らせろ、火が小さくなってきたぞ」
 「了解。…先任搭乗員、反転します」
 金縄二飛曹も大丈夫と思ったのか、すぐに反転した。金縄二飛曹が懸命に、機を右に左にと大きく滑らせているうちに、火炎はしだいに小さくなり、ついに消えてしまった。
 幸運にも、炎か主桁まで燃えひろがらないうちに、主翼燃科タンクの燃料がつきてしまっ たのだ。焼けこげた右の燃料タンクは、直径六、七十センチの大きな穴をあけ、その穴を通して海が見えた。

生還はわが一機のみ
 (洋上には、まだ残敵がいるかも知れない)
 チョイセル島の海岸沿いに、単機で帰投針路についた。金縄二飛曹に私の負傷状況と、さっ きの空戦でシコルスキーの一番機を撃墜したことを通報した。
 ようやく虎口を脱してほっとしたら、からだが汗ばんできた。ひどくだるい。痛みは全然 ないが、ものすごくだるい。
 飛行服のポケットからタオルを出して、左大腿部をしっかりと結んだが、左踵の出血は止 まらなかった。血綿のような、どろどろしたねばっこい血が、座席の下のジュラルミンの上 にぽとりぽとりと落ち、十五センチぐらいの円を二つ描いた。
 左腕の穴のあいた飛行服の縁は黒くこげ、引き裂かれた肉は柘榴のように口をあけ、周囲 はもりあがって暗紫色に焼けただれていた。
 チョイセル島の海岸沿いに五分ぐらい飛行したとき、また戦闘機が一機追尾してきた。
 「左後方、戦闘機一機」
 「了解」
 (せっかくここまで避退したのに、また空戦か…)
 と思ったが、勇気をふるいおこして、私は旋回銃をかまえた。豆粒ほどに見えていた戦闘 機は、みるみるうちにわが機に接近してきた。
 「後方の戦闘機、距離二千」
 「了解」
戦闘機がバンクした。(様子がどうもおかしいぞ、零戦じやあないか?)
 「金、戦闘機がバンクした。…零戦らしいから、こっちもバンクせよ」
 「了解」
わが機がバンクして合図すると、すぐに戦闘機もバンクを返してきた。やっばり零戦だっ た。零戦がぐうっとわが機に近奇ってきたので、私は右手で左腕を指さし、負傷しているこ とを知らせた。手信号を了解した零戦のパイロットは、ちょっと高度を上にとって、わが機 の被弾状況を確認し、脚をおろして速度を落とし、わが機に同行してくれた。そして、さら に下を指さし、さかんに手をふって合図する。
 (わかった、わが機の左車輪がやられているのだ)
 名前は知らないが、今日いっしょにブカ基地を発進した零戦のパイロットだ。好意を謝し て、私は彼に敬礼した。
 「先任搭乗員、もう大丈夫です。ブインはすぐです。…頑張って下さい」
 「うん、大丈夫だ」
金縄二飛曹が心配してくれる。身体は少しだるいが、やられた傷は不思議に痛くも何とも ない。気持ちはますます張り切っていた。
 「金さん、大丈夫だよ。…心配するなよ」
 私も心の余裕をとりもどした。空戦から約一時間、ブインの飛行場が見えてきた。零戦は 脚をひっこめ、バンクして飛び去っていった。ブインの飛行場では砂塵が舞い上がり、つぎ つぎと零戦が飛び立っている。つぎの攻撃隊の発進だろう。
 「金、プインは離陸中だぞ」
 「はあ、わかっています。…先任搭乗員、大丈夫ですか、頑張って下さい。…ブインに緊急
着陸をします」
 金縄二飛曹は私の負傷を心配して、海上からバンクしながら、離陸機とは反対に、ブイン 飛行場に緊急着陸をした。接地して三十メートルほど走ると、機は急に左にまわされ、ぐるっ思ったが、頂点で逆もどりしてぐわ−んと落下した。
 金縄二飛曹が座席を飛び出し、私に手をさしのべて心配顔で言う。
 「先任搭乗員、かかえますか?」
 「いや、大丈夫だ」
 近くにいた整備員が三、四人、主翼の上に駆け上がってきた。指揮所の方向から、乗用車 が砂ぽこりを上げて走ってくる。
 「大丈夫だ、一人で立てるよ」
 私が座席内で、左足でひょろひょろと立ち上がると、横で見ていた整備の兵曹長が言った。
 「無理だ、顔色が青い」
 「なに、大丈夫です」
 私は、負傷している左腕を金縄二飛曹の右肩にかけ、なんとか一人で座席を出ようとした とたん、均衡を失なって座席に尻餅をついた。
 「無理だ、みんなかかえろ」
 整備の兵曹長がまた言った。私は、みんなにかかえられて乗用車に乗せられた。
 「大丈夫だ。司令に報告しなければならんから、指揮所へやってくれ」
 「すぐ医務室に運ぶように言われました」
と、乗用車の運転手が言った。
 「いや、報告にゆく」
 「手当が先だ」
 また整備の兵曹長が言った。押し問答の末、報告は金縄二飛曹にまかせることにした。
 「金、シコルスキー一機撃墜を忘れるな」
 「はあ、大丈夫です。あとですぐに行きますから…」
 金縄二飛曹は駆け足で、指揮所の方へ走り去っていった。
 飛行場から車で二十分、海岸宿舎近くの、防空壕内の医務室に運ばれた。医務室に着いて 助かったと思ったら、急にずきんずきんと傷が痛みだした。左腕と左足のはずだが、脈を打つ たびに全身にこたえて、どこが痛いのかわからない。ともかく、全身が痛んで神経にこたえた。
 「裸にしてみろ」
 軍医長早川軍医少佐が看護兵に言った。白い看護衣を着た四、五人の看護兵たちが、手術台の上に飛行服のまま大の字に寝かされている私をとり巻き、両方から大きな鋏で手際よく、 飛行服、飛行鞄、下着と、手早く切っていった。裸にされたら、左上脾と左踵のほかに、左 大腿も盲管銃創で大きく口をあけてはれ上がっていた。
 応急処置の最中に、ぞくぞくと残留の艦爆搭乗員たちが医務室に入ってきた。見舞いにき た連中は、素っ裸にされて治療をうけている私を見て、みんなは痛そうな顔をして、じっと 私を見守っていた。
 軍医長は傷口に消毒液をぶっかけ、いちいち傷口をあけて診察し、ときどき専門語で何か 看護兵に話していた。傷口をあけるたびに、はげしく傷口が痛み、全身から脂汗がにじ出た。
 応急処置がおわると軍医長は、マスクをとり額の汗をぬぐいながら私に言った。
 「大丈夫だ、君はまったく運がいいよ。傷はみんな致命傷ではない。腿はあと一・五セン
チで動脈だったよ」
 「軍医長、ありがとうございました」
 応急処置がおわったので、見舞いの連中が私をとり巻いた。開口一番、俵上飛曹が私に言った。
 「おい、松ちゃん。もうけたなあ…内地へ帰れるぞ」
 いま治療をうけたばかりなのに、最初の見舞いの言葉としてはへんな言葉である。しかし、 その言葉の裏には真理がある、艦爆搭乗貫たちはだれ一人として、まともに生きて還れるな どとは思っていなかった。
 猪突猛進型で単純な私は、死生観についても、いたって簡単に考えていた。「戦場におけ る人の生死は、ただ神のみが知ることで、われわれには如何とも成しがたいことである。結 局は、なるようにしかならないのだ」と、自分なりに単純に割り切っていた。
 当時私は、神仏などは現実の戦闘には通用しないのだと思っていた。だから、郷里でもらっ たお守り札や、慰問袋に入っていた千人針などは、いつもトランクの中にしまっていた。搭乗員たちも十人十色で、お守り札を肌身離さず身につけている者もいたが、概して私のよう に、無頓着なタイプの方が多かった。
 私は、ほんとうは神も仏も信じていないのだから、いま述ぺた「ただ神のみが知ることで」 の表現はまちがっているかも知れない。しかし、自分がいかにもがいても、悩んでも、「現実の自分の生死については、 なんらの解決策とはならない」ということを承知していた。
 われわれが直面している戦場では、人の生死の間題は、あまりにも冷酷で無慈悲なものであるということを、いままでの戦閾が教えてくれていた。
 ニューギニア戦線でも、ソロモンの戦闘でも、敵弾はいつも「個々の家庭の事情や、その惜しまれる人格など」を、選別はしてくれなかった。いつの戦闘でも、敵弾は同じように飛 んできて、同じように若い搭乗員たちの生命を奪い去っていった。惜しい男が先に死に、憎まれっ子が世にはばかっているとも思えないのが、現実の戦閾の複雑さだった。
 結局この問題(死生観)は、人に教わっても解決できることではなかった。年が若かろう が、育ちが異なっていようが、そんなことには関係なく、自分自身で死の間題について、解 決するしか方法がないのである。庇理屈でもいいから自分なりに、これで日本の将来の平和 のためになるんだという、確固たる死生観を持つしか方途がないのが、戦場の常であった。
 しばらくすると、担架で医務室の続きにある壕に移された。艦爆搭乗員たちは、入れかわり立ちかわり、私を見舞ってくれた。彼らの話を総合すると、今日ブカを発進した第二次攻 撃の艦爆で、結局、基地に帰投したのは私の機一機だけという。あとは全部未帰還と聞かされて、暗然たる気持ちになった。
 当時の記録、五八二空飛行機隊戦闘行動調書には、
 「昭和十八年十月一日攻撃目標、ビロア敵輪送船団攻撃。第一次総合戦果=轟沈、中型輪送船一隻。撃破、中型輪送船二隻。第二次総合戦果撃沈、巡洋艦一隻。撃破、中型輪送 船二隻」
 とあり、編成表に代わるものとして、つぎの戦死者名が記録されている。
 「(偵察)中尉桜山皓一、二飛曹本田茂光、上飛斉藤三郎、二飛曹村田敏治、二飛曹井上武。(操縦)飛曹長宮武義彰、二飛曹森崎鋼一、上飛石橋傅、飛長西村武、不詳。 配置不明にして、一次、二次、いずれにて戦死するやも不明」
 と記述されているが、これは、ブカを発進した第二次攻撃隊員の名前である。
 緊急発進して攻撃に参加しなければならなかった攻撃隊編成ではあったが、当時を想起すると一掬の涙を禁じ得ない。
 敵反攻以前の飛行機隊戦闘行動調書には、攻撃隊の戦果および投下弾数、弾種から、各機の被弾弾数、固定銃、旋回銃の発射弾数にいたるまで、詳細に記録され整理されていた。
 しかし、戦勢われに利あらず、圧倒的な連合軍の物量攻勢におされ、ブーゲンビル島に敵 上陸の兆しのあった十月初旬(以降)ごろには、戦闘行動調書の整理も充分に手がまわらな かったものと思われる。当時の戦闘が苛烈であったことを物語っている。

さらばラバウルよ
 さて、話を前にもどそう。二十分ほどして、見舞いの連中と看護兵が立ち去ると、一人残っ た金縄二飛曹が私に言った。
 「先任搭乗員、ありがとうございました」
 「何だい、金さん」
 「飛行機がやられた時、私はだめだと思って…ほとんうは突っ込みかかったんです。…
『自爆待て』と言ってもらわなかったら、ほんとうは死んどったのです。『自爆待て』のおかげで助かりました」
 と、しみじみとした口調で、当時の心境を語った。
 「いや、金さん。ほんとうはおれも駄目だと思ったが、つい、『自爆待て』と、口から出たんだ。あの時おれは…瞬間的に、最後の最後まで頑張るんだと思って、つい、『自爆待て』 と、叫んだんだよ」
 「ありがとうございました。…先任搭乗員、早くよくなって下さい」
 金縄二飛曹はそれから約二時間、一人で私を看病してくれた。
 つぎの日、私はラバウル行きの一式陸攻便で、ブイン基地から後送されることになった。 午前十時すぎ、壕内の仮ベットから乗用車に乗せられて、飛行場の指揮所に着いた。
 ブインの飛行場では、零戦が急がしく発着していた。松葉杖にすがって、指揮所の横で腰 をおろして待機していると、金縄二飛曹が私を見つけて近奇ってきた。
 「先任搭乗員、昨日の飛行機は、五十発以上もやられていました。今朝、数えに行ってき たんです」
 「そうか、金さん。…お互いに悪運が強かったなあ」
 「はあ…先任搭乗員、早くよくなって下さい」
 「ありがとう、金さん。またどっかで逢おう。…金さん、頑張ってくれよ」
 金縄二飛曹はうるんだ目で、私に別れの敬礼をしてくれた。
 分隊長野村浩三中尉をはじめ、残留の艦爆搭乗員たちに別れの挨拶をして、昼前、一式陸攻に便乗した。
 迎えにきた一式陸攻は、同期の浅川浩一が機長だった。予科練時代にラグビーで鍛えた浅川は、かるがると私をかかえて便乗者席の真ん中に、特別にながながと私を寝かせてくれた。
 ラバウルに着くと、その口のうちに第八海軍病院に入院させられた。そして昭和十八年十 月八日、私は病院船高砂丸でラバウルを後にした。
 高砂丸の甲板で、松葉杖にすがって腰をおろし、一年前とかわらぬ花吹山の噴煙をあおいだ。
 さらば、ラバウルよ!激闘一年、五八二空とともに闘いぬいて、ニューギニアに、ソロ モンに、数多くの先輩、戦友を失ない、私はいま傷ついて病院船でラバウルを去るのだ。南 溟の空に散華した艦爆搭乗員たちに思いをはせると、万感胸に満ち、滂沱として涙が頬をぬ らした。

参考文献…戦史叢書南東方面海軍作戦(3)・第五八二空飛行機戦閾行動調書

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戦中随想あれこれ 十八期 川野喜一

敵飛行艇東京湾に着水
 東京が最初にB−29の空襲を受けたのは、昭和二十年三月十日であった。そして其の後は、 本土は度々空襲を受けるようになり、五月二十五日には、東京、横浜、川崎方面一帯は、B− 29の大編隊による猛爆を受け、大被害を被った。

 七月の或る日、我が方の防空砲火に打ち落とされたB−29の乗員が、落下傘で東京湾へ降下した。木更津基地に居た我々の眼前、数百メートル先の海上の事である。
 空襲警報発令と同時にみんなは防空壕へ駆け込んで、燕の子が巣から口嘴を出しているように、若い搭乗員達は防空壕の入口に集まって、不安げに空を見上げた。そして、厚木基地から敵機邀撃に飛び立った月光戦闘機の空中戦の成り行きを見守っていたが、その空中戦も終わった後 で、敵の飛行艇一機がグラマン戦闘機に掩護されて飛来して来た。そして、我々の眼前の東 京湾に着水したのでみんなは吃驚した。みんなの視線、当然飛行艇へ注がれた。どうするの かと思って見ていると、先に落下傘で降下した米軍の飛行士を助け上げ、悠々と引き上げた のである。
 敵ながら天晴な事で、我が軍も舐められたものである。その間僅か数分の出来事で、我が 方は眼前の米軍飛行士を捕虜にする事も出来ず、唯敵のなすが儘で、残念というか腹が立っ て仕方がなかった。

 話によれば、当時の高射砲は弾丸も制限を受け、余程近距離まで敵機が接近しなければ、 撃つ事が出来なかったようだ。また高射砲は、水平以下の目標は、撃てなかった様である。
 この飛行艇の眼前着水は、我が方の戦闘機が引き上げた直後の、瞬時の間を衝かれたもの であった。
 この光景を目のあたりに見た時、私は内心、“もう日本は負けた”と思った。今だからこ そ言えるのだが、その時は、血気盛んな命知らずの集団攻五飛行隊員であり、誰にも言う事 はなかったが…。
 その数日後の七月二十五日、第七御盾隊として、全機特攻部隊となり、最後の殴り込みを かける事になったのである。

特攻前夜
 太田山一家の宿舎では、先輩も我々若輩も同じ宿舎で寝起きしていた。
 八月八日の夜だった。明九日特攻に出る予定の、乙十五期の先輩である田中喜芳上飛曹が、 私の前の柱に、頭を打付けている。そして、田中兵曹は、
 「川野兵曹、矢っ張り痛いのうー」
 と、言う。
 「先輩、突っ込んだ瞬間は、痛いも何もないですよ」
 と、お互いに笑ってその場を済ませたが、先輩の気持ちを察すると、何とも言い様のない 気持ちをどうする事も出来ず、
 「田中兵曹、川野もすぐ後から行きますから…先に行って待ってて下さい」
 と、言うしかなかった。
 田中先輩には、私は特に可愛がって貰っていた。

 特攻部隊とは、日時こそ違え、確実に死が訪れる運命なのである。“残る桜も必ず散る” とは、良く言ったものである。飛行機乗りは、毎日が棺桶と共に飛んでいる。
 五十年経った今も、その太田山での特攻前夜の事が、未だ脳裏から離れ去る事はない。

飛行服が先発隊と共に
 八月十三日、第七御盾隊第三次流星隊の特攻出撃命令が出た。
 その第三次流星隊の編成で、一小隊二番機に乙飛十六期の西森良臣上飛曹が入っていた。
 その西森兵曹に、出発数時間前に私は呼ばれて、
 「川野兵曹、俺の飛行服と取っ替えろ」
 と、言われて吃驚した。
 「西森兵曹、どうしたんですか?」
 と、私が答えると、西森兵曹は、
 「死出の旅に、お前の新しいその飛行服を着て行きたいんだ、取っ替えてくれ」
 と言う。私も、数日後には特攻に出るのにと思いながらも、先輩の言う事でもあるし、
 「はい、分かりました。取り替えましょう。私の飛行服を着て行って下さい」
 と、言って、お互いに相手の飛行服を着る事になった。
 私は、自分の飛行服が古くなったので、主計科倉庫に行って、新品と交換して貰ったばか りだったが、先発隊で今すぐ特攻で飛び立って行く先輩に、早速脱いで飛行服を取り替えた。
 併し、お互いの上衣の内側には自分の名前が記入されているので、何だか変な気持ちがし た。何れは南方の海中に身を投ずる運命にある二人、飛行服の中身がどうであれ、一向に構 わない事であろう。またあの世で取り替えれば済む事と心に言い間かせ、笑って送り出した。
 「搭乗員の命は、生と死の紙一重」と言うが、未だに私は、飛行服を取り替えないでいる。 西森兵曹の飛行服は、現在土浦の予科練記念館で、遺品として永久保存されている。

 今考えると、あの時自分の飛行服が、自分の身代わりとなって特攻に出たものと思われる。 そして、我が五体は生きながらえた。神は私を生かし、お前は亡くなった多くの御霊を祭り、 この悲惨な戦争の事実を後世に伝えると共に、平和を希求し、散華した多くの御霊の願いを 叶えてやる事を、私に託したのだ。
 「西森先輩」、先輩は、私の飛行服に身を包まれ、南海の暗くて冷たい海の底に居て、居心地 が悪いでしょうが、どうか安らかにお眠り下さい。私は、ただただ御祈りするのみです。
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